曲は有名なスタンダード『パリの四月 (April in Paris)』。
驚いたのは、実はこの曲、ビル・ディヴィスが「カウント・ベイシー楽団」と共演して吹き込むはずだった曲だからだ。
なのに、なぜライバルのエリントンと???
1930年代〜1940年代初頭まで隆盛を極めたカウント・ベイシー楽団も、1940年代半ばになってビッグ・バンドという形態がすたれてきたことやレコーディングのストライキ、戦後の不況のあおりを食らって楽団の維持が難しくなり、いったん解散せざるを得なくなる。
中規模コンボの形態でどうにかキャリアを維持しながら、1950年代に入って体制を立て直し新レーベルと契約を取り付け、心機一転のぞむ予定だったのが、このワイルド・ビル・ディヴィスとの共演。曲はディヴィスの編曲による『パリの四月』!
ところが、何のアクシデントか手違いかビル・ディヴィスはスタジオに現れず、仕方なくバンドだけで録音したアルバムが、あろうことかの大当たり!
まさに「ニュー・ベイシー・オーケストラ」の代表曲となった・・・とのこと。
上の動画を観る限り、さすが編曲者だけにベイシー楽団を彷彿とさせる好演奏だが、オルガン・ソロならともかく、バンドいらねぇんじゃね?と思わせる。
じっさいエリントンのオケだって、入ってくるのはエンディングだけだしなw
もし、ベイシーと演る予定だったときもこのアレンジだったとしたら、ベイシー楽団が持ち直したかも怪しいかも???
「あの時、ビル・ディヴィスの車のプラグを引っこ抜いといたのは、この私なんだよね〜」とは、ベイシー翁が晩年まで好んで言ってたジョークらしい。
おと〜さん的には、ベイシー翁亡き後リーダーを受け継いだ、バンドOBにして名トランペッター・アレンジャー&バンドリーダー、サッド・ジョーンズの指揮による日本公演がベスト!
この公演はベイシー翁追悼の意味もあり、カリスマを失って再び存続の危機にあった楽団をサッド・ジョーンズのハートフル&ソウルフルなリーディングで立て直したことを世に知らしめたそれはそれは素晴らしいものだったが、そのジョーンズも程なく還らぬ人となってしまった。
やがて、ジョーンズと同期のバンド仲間、フランク・フォスターにバトンが渡されるが、悲しいことに、すでにどこにでもあるただのジャズ楽団になり果てていた。
盲目のシンガー、ダイアン・シュアーとの共演ステージを観たが、この曲のトレードマークだったエンディングのリフレインも聴かれなくなり、がっかりした覚えがある。
(あん時は、ダイアンも風邪がヒドくてさんざんでさぁ〜orz)
そして、楽団のマスコット的な存在だった名名名名名ギタリスト、フレディー・グリーン(後からピョコタンピョコタンと席に着くおじいちゃんw)も世を去り、もうこのバンドを聴く意味が完全に無くなった。
なぁんて湿っぽいハナシで締めちゃいかんが、この動画を観るたびにアタシゃ胸がジーンときて目頭が熱くなるだよ・・・
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